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慶応4年8月のミステリー mystery of September 1868 [松浜]

12月7日

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今年秋、八十里越体感バスでご案内した松浜中学校時代の恩師からいただいた新聞記事の切り抜きに気づきました。
150年前の戊辰戦争の折新政府軍は松浜の隣太夫浜に上陸し、この記事によると、西郷隆盛も今の松浜本町2丁目にあった、坂井七左衛門宅に滞在したとあります。なお松浜の旧名は松ヶ崎村です。松浜本町2丁目は下のgoogle mapのマークの辺りです。松浜の運河の阿賀野川水門近くです。1868(慶応4年)年8月11日〜9月8日に松浜に滞在して、その間太夫浜にも行っているようです。
皮肉なことに、1868(慶応4)年7月25日、庄内藩中老石原倉右衛門は、スネルとの武器弾薬の売買契約書を懐に庄内へ向かう途中、松ヶ崎浜村で上陸した新政府軍(長州藩兵)と遭遇し、殺害されました。松浜稲荷神社への上り道でのことです。地図上では浄音寺の左上辺りです。この石原倉右衛門という人は江戸薩摩藩邸襲撃の総指揮役を任じられ、まんまと西郷隆盛の挑発にのせられた人です。
そんな2人がこの夏松浜の地でニアミスしてたことは運命のいたずらでしょうか?両現場は距離にして500mほども離れてはいません。
アンチ新政府軍だった庄内藩に対し、その後西郷隆盛は寛大な対応をして許したのだそうです。対露など北方への備えとして庄内藩に武器保有を許したのではと記事には書かれています。そこまで西郷隆盛が先を読んだかはわかりませんが、庄内藩には大いに感謝されたようです。庄内の地に南洲神社が有るのはその表れでしょう。戊辰戦争後の庄内藩の扱い方に微妙な加減の違いがあり薩摩、長州(大村益次郎等)、新政府、西郷隆盛辺りのいろんな思惑も見えるような!複雑すぎてわからないような!
今は新潟市の北外れの地ですが、戊辰戦争時には大騒動があったのです。ちなみに河井継之助はこの年8月16日(グレゴリオ暦では10月1日)に只見町で死んでいます。
1868年(慶応4年=明治元年)夏は三条市曲渕での戦いで西郷隆盛の弟が負傷(その後死亡)してるし、しただから八十里越、只見町へとともかくあちこちでいろんなことが勃発していた時だったのです。

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