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五泉、福島潟、新発田 Gosen, Lake Fukushimagata, Shibata [旅]

9月22日

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三条で写真教室を終えて、14時に五泉の友だちのお宅で待ち合わせです。上はそのお宅のゴローちゃんです。お年で、最近住まいを外の犬小屋から居間に移しました。私に対しては威張っています。こちらで3人が落ちあって今月のキャンプに出かけます。毎月のキャンプ仲間なんです。
行き先は先月も行った福島潟の菱風荘です。
途中で寄る水原と言えば瓢湖ですが、私たちにとっては佐藤食肉ミートセンターです。ここで「あがの姫牛」と言う肉を仕入れて、今晩もお肉、ビール・・・です。ビールも飲んだけど、岩の原ワインの「善」の赤も美味かったです。上越市の岩の原ワインに行った時飲んだのが飲みやすくて好きになりました。安いしぃー!と言うことで、お喋りしながらいっぱい飲んじゃいました。
ここは冷暖房、バストイレ、キッチンが揃っているので、洗濯機が無いだけくらいでほぼコンドミニアムみたいなところです。キャンプと言うほどめんどくさくも無くて我々にはいいんです。

9月23日

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朝1本だけ残ったビールを飲んでいいよって言われ、運転もしてもらえることから、遠慮なく朝ビールやっちゃいました。極楽極楽!ごめんなさい。

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上は雁晴れ舎から見た福島潟の西側です。右にビュー福島潟が見えます。見えませんが、その左側にあります。

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雁晴れ舎の上から東を見た広々した福島潟の眺めです。東は福島潟、新潟平野と開け五頭連山、二王子山、飯豊連峰も遠くなので朝の光もたっぷりと爽やか届きます。

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冬にはお多くの渡鳥で賑わう福島潟ですが、今は広い湖面にまばらです。
上はカンムリカイツブリで下はシラサギです。

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福島潟から新発田の清水園に移動します。
上は新発田川です。左に足軽長屋があり、右が清水園です。
加治川から分流し、新発田川放水路は東港に流れ出ます。
輸送路としては、西に行き阿賀野川、阿賀野川から通船川経由で信濃川へとつながります。
下は清水園の大門から中門を見たところの私たちです。ボランティアガイドさんにたくさん解説していただけました。いろいろお話を伺いながらの見学は興味深くとても楽しいです。奥に向かい道が細まり遠近感が出て見える様に作られています。ちなみに、この道沿いに流鏑馬が行われたそうです。

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清水園は新発田藩旧下屋敷跡です。京都の桂離宮の技術と苔寺(西芳寺)の要素がとり入れられた名園です。

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左はタブノキの古木です。左下がコブの形などから、幹にしがみついているガマガエルみたいだとガイドさんに言われて見るとそう見えなくもないです。タブノキの実はアボカドに似た味がするそうですが小さ過ぎます。皮と種の間アボカドの食べる部分になります。
右の木には大きなウロがあって撮ったのですが、種類をよく見なかったです。これもタブノキかもしれないです。

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園内に赤い実をつけたウメモドキがたくさんありました。池の奥にシロミノウメモドキもありました。今はウメモドキの季節のようです。(上)
部屋の中に何気に鎧が飾られています。(下)

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清水谷御殿と呼ばれた書院です。簡素な作りは当時の幕府に対する政治的配慮と言われています。
新発田藩は12代江戸時代を通して外様の溝口家が治めました。江戸時代にあって一度も所替えが無かったことは大変珍しいことのようですが、外様大名でもありそれなりの気遣いをしたようです。

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水という字のような池を中心に近江八景模した池泉回遊式庭園です。
清水園は実家からも近いので何度も来たことはあるんですが、ガイドさんにいろんな話しを教えていただけて今回は特に楽しく見て歩けました。

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新発田藩溝口家の溝口菱若しくは五階菱と呼ばれる家紋です。(上)低湿地の新田開発に尽くした溝口家を偲ばせる家紋ということでしょうかね。
また、新発田城を見るにやはり北越戊辰戦争における新発田藩の挙動を思わざるを得ません。「新発田に嫁をやるな。」とは当時の長岡士族の言葉だそうです。新政府軍と戦って城や街を失った長岡藩にとって、戦わず(多少は戦った)に城も街も残った新発田藩は裏切り者と思えるでしょうね。しただにいると河井継之助(長岡藩)側に立って考えてしまうけど、新発田に来て清水園や新発田城を見ていろいろ見聞きすると、それなりに事情のあったこともわかります。そもそも乗り気じゃなかった奥羽越列藩同盟には、大藩の会津藩に恫喝されて、止むなく加わってた新発田藩に同情しちゃうかな。長岡藩だって小千谷談判の結果として成り行きで新政府軍と戦うことになったわけだしー?
いづれにしてもこの慶応4年(明治元年)は新潟県内の各藩にとって、新政府軍側と会津藩側のプレッシャーはキツかったでしょうね。
新潟港を巡る攻防で、長州兵が隣の太夫浜へ西郷隆盛がうちの実家がある松浜に上陸したのも辺りが新発田藩領だったせいのようです。結構身近なところでいろいろあったんよね。

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帰りは290号線沿いに五頭山麓を五泉方向に戻ります。北越戊辰戦争では新発田からこちらでも、水原天朝山、赤坂山砦、咲花佐取山など各地で新発田藩を含め新政府軍と会津兵との戦いがありました。
村杉温泉の川上とうふで夕食に豆腐を買います。写真は保田のヤスダヨーグルトのショップです。

清水園、新発田城を巡り裏切り者と言われた新発田藩の事から村松藩を思い起こしました。五泉から先しただから見附まで村松藩領はありました。長岡藩の攻防のおりには、長岡藩、会津藩と新政府の両勢力に常に疑いの目を向けられていました。しただの赤坂峠でも無惨な戦いがあり村松藩は多くの死傷者を出しています。
ほんの150年ほど前ですが鳥羽伏見の戦いに始まる大変な内乱の年があったわけです。

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