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物心ついた頃このお城に住んでいました。As far as I can remember, while I was baby, I lived this Castle. [母とのこと]

7月8日

先ほど白根図書館で見つけた本に母の実家の記事を見て思い出したことを少し書いて見ました。3〜5歳頃過ごしたところです。これ以前は新潟市内の新大医学部のグランドを見下ろす旭町の、「山の家」と皆んなが呼んでいた住まい兼オフィス、に居たと思います。こっちは本家の家族が住んでいました。ここでの記憶はかなり曖昧模糊です。2階から見る新潟祭りの花火が死ぬほど楽しかったことを覚えているくらいかなぁ!隣に田上の田巻さんと言う大地主のお屋敷がありました。同じ年頃の子もいたんだけど、一人で遊びに行くのはハードル高かったです。

「越後 豪農めぐり」と言う新潟日報事業社(現 新潟日報メディアネット)発行(1986年初版)の本です。
左上表紙は他の大地主お宅の写真です。
うちなんかは、以前祖父が新潟日報の前身になる会社の一つである新潟新聞社社長だったせいで載ったんでしょう。祖父は私が生まれる1年前に死んでいるので会ったことはありません。

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この家はこの辺にあった村上藩の土地を差配していた地主です。戦後の農地改革以前にはたいそうな農地、山林を持っていたらしいです。それでも巻から西蒲区、加茂、三条辺りにだいぶ残っていたようです。うちは本家じゃないので関係無いです。「しただに住むんだったら山くらいやったのに!」などと本家の従弟にバカにされましたよ。まあいいけど!
屋敷は堀に囲まれて、中に門番さんが住んでいた門がありました。それが下のカットです。私は農地改革以前の屋敷は知りませんが今の倍の大きさはあったようです。その半分でも総檜作りの風呂や3頭分ほどの牛馬の小屋の脇の風呂がありました。右上のカットの土蔵の右側にありました。私は檜の匂いが臭くて牛舎側の風呂の方が好きでした。牛舎は堀を出た田んぼ側にもう一つあり、鋤を使って田を耕していました。土蔵の左は台所、大食堂、女中部屋、大きな仏間、母と寝起きしていた部屋なんかに繋がってました。母と暮らしていた部屋から途中に便所があるほど長い廊下の先に母屋側にあるのとは別の仏間がありました。千利休なんかのイメージだと狭い部屋ですが、茅葺き屋根の一軒屋って感じのデカい茶室が端にありました。田舎だねぇって京都の人には笑われるかも?茶室までの通路に無造作にいろんな人からもらった引き出物が突っ込まれていて小さな私も通り抜けに困るほどで、大人が来たりしません。茶室との行き来は私の秘密の探検路でした。土蔵の前に写っているのはケヤキの超古木でフクロウが長根棲みついて人を脅すので怖かったです。多分フクロウの繁殖期だったんでしょう。まあともかく、いろんな大人に可愛がってもらえて結構楽しい時代でした。しかし、その一人王子様時代は後から現れた妹に奪われたのでした。ジャンジャン!そしてその後、私たち家族は八王子へと住まいを移すのです。と言った具合で、次から次へと思い出したらきりが無いのでまた気が向いたら書かせていただきます。長々とすみませんでした。第一、王子様は本家の従弟なわけだし〜ね。
ほとんどが記事には無い私の思い出話を書いちゃいました。



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