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恩師を囲んで our loving old teacher [思い出]

1月9日

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ノンビリ日向ぼっこジョギングをし過ぎて遅くなり、シャワーも浴びず昼食もとらずにあわてて北浦和へ向かいました。ところが、武蔵野線が案外便利で早く着きすぎました。
北浦和駅前は懐かしいです。(左下)駅前の17号線を渡った先に森が見えていますが、ここに文理学部のキャンパスがありました。一般教養の2年はここで過ごしました。立て看、アジ演説、芝生、木造校舎・・・。混沌の青春の時が思い出されま!
大学は大久保に移転し今は公園になっています。(上)噴水の池の前で犬の集会がありました。(右下)なぜかあまり可愛くない犬たちとこれも大して可愛くもない赤ん坊がたむろしています。

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寒くなってきたので公園にある埼玉県近代美術館のロビーで、ブログの入力をしながら時間まで待ちました。(上)
去年と同じ駅前の「キッチンきく」さんで大学の恩師を囲んでの新年会です。(下2点)
遠くはアメリカ、北九州、盛岡からも、ちょっとボケて可愛くなった老人の元に集まりました。我らの恩師 I原先生です。みんな先生にお世話になりましたが、できの悪い私は随分ご迷惑をおかけしました。先生だけじゃなく、我々も少しボケの入り始めるお年頃です。埼玉大学なんですが、残念ながら現在まではノーベル賞に「ノミネート」されている奴はいない様です。今宵は大いに「のまねーと!」ということで2次会も駅前で盛り上がり、また、6月嵐渓荘、来年の新年会のことも決議いたしました。
2016年6月17・18日三条・しただ「嵐渓荘」(アメリカからF田も来るよ。)。2017年1月7日北浦和「キッチンきく」新年会。の、予定ですよ。
元々は「 I原教室」の集まりでしたが、もう教室というより「生化学学科(当時の)」ということで集まりましょう。よろしく!

ホテルオークラ Hotel Okura [思い出]

10月9日

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from NHKTv


今日NHK「ドキュメント72時間」という番組では、ホテルオークラの本館最後の72時間をやっていました。老朽化のための建て替えで、4年後にリニューアルされるそうです。

目黒のスタジオと神田の事務所の行き来に車で通った近道が、ホテルオークラの前の霊南坂でした。目黒からだと、スエーデン大使館の方から来て右手がホテルオークラ、左手が塀に囲まれたアメリカ大使館です。警官の詰所もあります。急坂を下りきったところの左がアメリカ大使館の正面です。坂の右側はホテルオークラの塀に沿ってタクシーが並んでいることもよくありました。坂を下りかけたところにホテルオークラの入り口があり、チラッと中の様子が見えます。落ち着いて豪華な感じの建て物でした。歴史あるホテルでいろんなドラマがそこで繰り広げられたことでしょう。
あの雰囲気は壊されて、4年後に新しいホテルになっても全く異なってしまうわけです。
東京は目まぐるしく変わり、神田なんてひどいもんです。神田ってもうそんなもんだって諦めている感があるんですが、なぜか霊南坂の界隈が変わることが寂しい気がします。あの塀に囲まれた長い急坂の感じが好きだったのかもしれません。港区は坂がたくさんあります。

この番組は、松崎ナオのテーマソングが好きでつい見ちゃうことがあります。

埼玉大学とノーベル賞 [思い出]

10月7日

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from NHK TV


関係無いと思っていた、埼玉大学とノーベル賞ですが、この人が関係をつけてくれました。
他に山梨大学とノーベル賞とを関連づけた人もいるようです。

私とノーベル賞は、大学の後輩がそれを受賞したということに初めてなりました。旧帝大を出ていれば先輩にも後輩にもノーベル賞受賞者はたくさんいて、たいして意識もしないでしょうね。
私の場合は、パキスタンの人々が自国の娘さんがノーベル賞をもらったという関係と同程度に希薄な関係です。

梶田さんは理学部ですが私らの頃は理学部は無く、物理学科も私たち生化学科も理工学部のなかの理学系として同じ建物でした。当時は全学で3,000人チョッとのミクロの駅弁大学の一つでした。東大の植民地なんて言われようで、確かに教授から助手まで先生方を見る限りそんな感じでした。しかも、今はなき2期校というカテゴリーで、3年生になる前によりいい(?)大学へと受け直して居なくなる奴が結構いました。でもまあ、私にはそれなりにいい大学だったかもしれません。今でも毎年皆んなで集まり当時の教授を囲む会なんかをしてつながりがあるんです。早稲田みたいなマンモスではありえへんことでしょう。

まあ関係無いけどチョッと嬉しいニュースではありました。これを機会に私みたいに「埼大出」をカミングアウトする奴は多少いるかもしれません。でも私みたいにどうでもいい奴はともかく、大半は黙っていると思います。カミングアウトなんてまるで同性愛みたいですが、実際そんな感じの後ろめたさです。埼大出同士ならそのことを隠すことはあまり無いと思います。その辺も似た心理かもしれないです。



メグカナ世代 Megu-Kana generation [思い出]

4月12日

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NHKテレビより from NHK TV


栗原恵が復活?
ケガに悩まされたり、若手に追い抜かれ何時もかわいそうなシーンばかりのメグちゃんが、V・プレミアリーグ女子優勝決定戦に出ていました。全日本代表が勢揃いの久光製薬に岡山のエースとして挑み3対1の善戦しました。もう、引退していたかと思っていたのに凄いです。
別にバレーボールに興味も関心も無かったのですが、仕事で某社のバレーボール選手をずっと撮っていたので気になっているだけです。メグちゃんもそこに少しだけいたことがあります。高橋、杉山、大友、竹下・・・など凄いメンバーがいた時期でした。’(メグちゃんは可愛かったですよ。大友愛なんかもスタイルよくてカッコよかったです。)そこを退社後メグカナ時代を迎えます。しかし、ケガなどで不幸なことになってゆきました。
女子バレーの選手生命は長くありません。よくぞメグちゃんが復活したものです。頑張ってほしいです。

今は無き、新潟電鉄線 lost railway [思い出]

10月11日

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上 昔走っていた車両 左下 中之口川 右下 角兵衛獅子の人形
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今日の予定は、「カワネズミ」をクール宅急便で発送、イオンの表彰式、月潟図書館で本を返却、西海岸プールでスイム、新潟市陸上競技場でシティマラソンのナンバーカード及びICチップ受け取り、しただに戻る、といったところです。

と、いうわけで三条から月潟へ行きます。新潟市内で他の図書館でもいいのですが、金曜休みじゃないところで新潟市に向かう道すがらというと、ここの図書館へ返却ということになります。

月潟には、昔の新潟電鉄「月潟駅」駅舎が残っています。
旧・県庁前(今の市役所)から燕まで新潟交通の電鉄が走っていました。中之口川の河川蒸気船にかわる交通手段でした。
単線なので新潟の家からこの辺まで来るのは半日がかりでした。電車が駅でタブレット交換をしながら進んで行くのを見た記憶があります。中之口川の左岸を土手に沿って走っていました。県庁前から来て、月潟の次の「六分」がうちの田舎です。ここまで来ると「六分」の家がもうじき見えるとワクワクしたのを思い出します。

月潟は角兵衛獅子発祥の地です。子供が獅子舞をする大道芸で各地を訪れ、江戸にまでいってその名を有名にしたそうです。旧・月潟駅の向かいのお宅の窓辺に角兵衛獅子の人形が置かれているのが目につきました。

備前焼 Bizen [思い出]

9月27日

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夕食に何時もの晩酌です。
今日は焼酎が無くなっていたので久しぶりに日本酒です。日本酒はあまり体に合わないようなので控えめにします。ある友人が「越乃梅里」につくらせた大吟醸です。

何時ものように何時ものぐい飲みで飲もうとして気づきました。
先日お通夜に行った死んだ友人が引っ越し祝いにくれた備前焼です。
持った感じ、唇にあたる感じなどがとても良いので、何を飲むにもこれです。私の暮らしの隅々にその親友の思い出が沁みこんでいるのを感じます。まあいいさー!酒を飲むたび思い出すよー。

備前焼の取材に行き備前焼の虜になってしまい、自分でも焼かせてもらったりするほどの凝りようでした。その後沖縄に行ってからは壺屋焼にも随分はまっていました。おかげで私もいくつか新垣さんの作品をもっています。

母の昔話4 old story of my mother4 [思い出]

3月3日
お雛様

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母とスーパーに買い物に行き、「あ!お雛様だー。」と気付きました。それらしいものとして桜もちを買って帰りました。夜、桜もちを食べながら、母が言うには「東京の方の桜もちはだいぶ違うんだよねー。」とのこと。甘いものを殆ど食べない私には何のことやらわからず、ネットで調べてみましたが、母の言うとおりでした。桜もちには「長命寺」と「道明寺」というのがあり、東京ではただ桜もちは「長命寺」を指し、「道明寺」の場合はわざわざそういうのだそうです。そういえば関東には、私が桜もちだと思ってる物体を「道明寺」という人がいて不思議に思ってました。京都~北陸ではその逆らしく、その意味でも新潟は京都圏的です。

その後3月4日。車を走らせつつBSNラジオを拝聴していましたら、アナウンサーの石塚かおりさんも、昔、東京で初めて一人暮らしを始めた途端に桜もちカルチャーショックを体験なさったそうです。「貴女の言っているのは道明寺です」と関東人の日の浅いお友達にあからさまに言われたのだそうです。Wikipediaに中央高校卒業の有名人ということで堂々と「石塚かおり」と書いてありましたので彼女はまごうことなく新潟県人です。

その記載を見つけて以来私はWikipediaをあまり信用しなくなりました。記事を書く人によるのでしょうが、ちょっとバランスに欠いた記述ですよね。私は彼女のファンではありますが、たいして多くもない有名人の一人に入れるほどのことはないのにとその時は思いました。

母の実家にお雛様があり、毎年出したり仕舞ったりしているうちに官女様の道具類がどこかに紛れてしまって無くなっていたそうです。だから、笛や鼓を持ってる格好だけの人形があったそうです。家に悪いことがあった年は雛祭りはなく、ですから正確には毎年やっていたわけではないそうです。
男の子には雛祭りではなく、まだ寒い時期に「天神講」というのをやったそうです。

薙刀
テレビ「八重の桜」で薙刀の稽古シーンを見て、「私もやったんだよー!」だそうです。新潟高女(現・中央高校)の体育の時間で、戦時色が強まり始めた頃のようです。
小柄な母の薙刀はあまり迫力なかったでしょうね。

母校? alma mater ? [思い出]

2月11日
由井第三小学校

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小学生の絵 picture of elementary school


京王線と交差する国道16号線の歩道のガードに、この絵は飾られています。今の八王子の家は(わけあって、しただ、新潟、八王子で生活しています。)、たまたま由井第三小学校の近くです。小学校1年はこの学校でした。父の仕事の関係で、2年になってすぐに秋田市の学校に移ったので、1年ちょっとしか通いませんでした。だから母校というのも変かもしれません。あまりハッキリした学校生活の記憶もありません。佐藤先生というオバちゃん先生だったなー!やたら青っ鼻をたらしてた女の子がいたっけ。(あのころは鼻垂れの子が多かったです。)
そう言う私も、蓄膿症の治療に母に連れられて八王子の街中の耳鼻科へ通いました。家からは川を渡り、坂道を上り、広い麦畑を突っ切り、また下って行くと八王子の街でした。今では、すっかり住宅に埋め尽くされています。医者に通うのを嫌がると、先生がちゃんと治さないと手術をするよ!と、言います。そして手術用のノミやドリルを見せて脅されたのを思い出しました。
結構思い出してきたけど、キリがないから八王子の事はまたね!

母の昔話3 an old story of my mother3 [思い出]

NHK「サラめし」2月7日

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オニギリをみて

「今のオニギリはみんな三角だねー。昔はみんな丸だったよ。」とさ。
それは、球だったの?「お釜の蓋の上で、キュッキュッと」と言ってご飯を両手で丸くかこむように握ります。だから、平べったい丸ですね。そう言えばそうだった、と母のオニギリの形を思い出しました。遠足でお昼の頃には、ご飯の湿気でノリがシットリ馴染んで美味しかったよー!

サトウキビをみて

「六分(母の実家があるところ)でも、サトウキビを作っていたよ。」戦争中のことらしいです。サトウキビを齧る仕草をして、「甘かったよ。」って。
砂糖を作るほど大々的にしていたのではなく。おやつ代わりだったらしいです。砂糖の配給が少なく、甘さに飢えていたんですね。

じゅんチャンのお金 Jun-tyan's money [思い出]

戦没者弔慰金

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condolence money to war dead


2年分忘れたままになった戦死したオジさんの弔慰金を、母と一緒に郵便局にとりに行きました。オバが受取人なのですが、もう脳梗塞で植物人間状態なのです。
もう父の兄妹も、去年一番下のオバが死んだからそのオバだけです。戦死した、みんなに「じゅんチャン」とよばれるオジには勿論会ったこともないのですが、優しげな学生時代の写真を祖母が大切にしていたのを覚えています。バイオリンを弾いたりする人だったらしいです。一番下のオバなどは、勉強はよくできたけど、威張ってプライドがやけに高い父なんかより好きだったようです。たぶん祖母も。確か戦争末期南洋に向かう輸送船が撃沈され戦死したはずです。だからお骨も無いのだと思います。当時、父はフィリッピンで日本語教師をしていたか、ジャングルを彷徨っていたかの頃だったはずです。

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遠くの飛行機雲 distant contrail


プールに泳ぎに行った時、遠くの空に高く飛ぶ飛行機を3機見かけました。一機は旅客機かもしれないけど2機で飛ぶのは何でしょう?目を凝らさないと気付かないほどの高さです。あれだけ遠いと現実感がないです。思い出なんてのも遠い昔となれば微かなものになってしまうのでしょうか。優しい息子を失った祖母の胸の内にじゅんチャンの記憶はどんな風にのこっていたのでしょう。もうオジさんを知る人はほとんどいなくなりました。